柑橘栽培の歴史 

 

本市における柑橘栽培の起源については諸説がある。

 

1.神話時代には、田道間守が中国南部より導入した非時香果(トキジクノカグノコノミ)が現在の海草郡下津町に移植され、その後本地方に伝播された。(古事記 日本書紀)

 

2.永享年間(1429年〜1440年)市内糸我町の神田池に橘が一本自然に生えており、年々実を結び、これが蜜のような味であったことから蜜柑と名付け、他の地方へも広がっていった。(糸我社由緒)

 

3.天正2年(1574年)糸我の地頭伊藤孫右衛門が、紀州候命を受けて肥後八代よりみかん(小みかん)苗木2本を持ち帰り、その後伝播した。(紀州蜜柑伝来記)

 本格的なみかんの栽培が始まったのは、江戸初期からである。

 元和5年(1619年)、徳川家康の十男頼宣が紀州に入国するや、平野がなく、年々の石高もわずかなこの地にみかん栽培を奨励し、みかん産業化への第一歩となった。

 寛永11年(1634年)には、市内の藤兵衛が自分のみかんを江戸へ船出荷を開始し、有田みかんの質の良さはたちまち評判になり、翌年には自他のみかん 2,000篭を江戸に送るようになった。これが県内における出荷制度の始まりで、元禄年間(1688年〜1703年)には25万篭以上のみかん篭が江戸送りされるようになり、この出荷制度は明治初年迄約250年間続 くこととなる。

 全国的に見て、和歌山県がみかんの先鞭をつけ、販売の先端を切ったものでないにも拘わらず、みかん王国を誇ったのは紀州候の庇護、天恵による品質の良さ、先人の優れた努力の3つの要因が整っていたからである。

 明治時代(38年)には市内で約570haのみかんが栽培され、これは現在の約半分がすでに作られていたことになる。

 温州みかんは、明治20年頃より植栽が始まった。

 明治初年からの乱立により、混乱を来した出荷組合は、明治38年には有田柑橘出荷組合が発足され、出荷組織も安定期に入ると共に、栽培面積も長い間の停頓期を脱して順調に栽培面積を拡大していった。

 この頃はまた紀州みかん、八代みかんなどから、温州みかん、ネーブルオレンジ、夏みかん等に転換が図られた時期でもある。

 大正13年には国鉄紀勢線(和歌山〜箕島間)が開通、翌14年には宮原駅まで開通され、それまでの船輸送から陸上輸送に変わり、安全で確実なみかん輸送の基盤が確立された。

 昭和に入って順調に伸びていたみかん産業も、第2次世界大戦の食料増産の犠牲となり、有田市を服務有田地方では昭和15年に2,264haあったみかんの栽培面積が、昭和20年までに950haも減少し、荒廃の極に達した。

 このみかんが、戦前の最盛期近くまで復興するのは昭和30年頃である。

 この間昭和28年には有田川の大水害があり、末會有の被害を被ったが、これを機に平坦農地は10a区画の水田に耕地整理された。

 災害復旧後、みかんの好況により水田の樹園地転換が始まり、特に36年〜39年の4ケ年間には市内でも195haの水田が樹園地転換され、有田市におけるみかんの第2の黄金期を迎えた。

 このみかんも、昭和40年代半ばになると、慢性的な生産過剰時代を迎えることとなり、中でも昭和47年には全国でも300万tを越える増産で大暴落となり、これを契機として生産調整が論ぜられるようになった。